安重根裁判と高知の奇妙な因み

[インタビュ-] たくさんの高知出身はなぜ大陸に渡ったのか

등록 2019.04.02 15:07수정 2019.04.02 15:16
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日本人たちが昨年11月1日高知市にある田內千鶴子の追慕碑の前で彼女の業績について話している. ⓒ 金璟年

  
"韓国孤児の母"追悼碑が日本にある理由

日本本土を構成する主な島の中で最も小さい四国にある高知県。高知県は昔から土佐藩と呼ばれており,日本人が最も好きな歴史人物という坂本竜馬が生まれた場所だ。 空港の名前も"竜馬空港"で,町の通りや観光地,ホテル玄関などには必ず竜馬の銅像が立てられている。

そんな高知県が意外に韓国と非常に深い縁を持っていることを知っている人は多くないだろう。

高知市内と市外を繋げる青柳橋の前には大きな石にハングルと日本語で"韓国孤児の母田内千鶴子誕生の地"と書かれた追悼碑が建っている。 これは日本植民地時代韓国の木浦(モクポ)の孤児院長と結婚したが朝鮮戦争中に夫に死なれ,生涯孤児のために献身し,生を終えたある日本人女性を称えることだ。

田内千鶴子(韓国名尹鶴子)が1968年死亡すると、木浦市は木浦市民葬で葬儀を行う哀悼しており、彼女の故郷の高知では1997年木浦から持ってきた石で追悼碑を建て、毎年彼女の意志を称えている。
 
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田內千鶴子の追悼碑. ⓒ 金璟年

 
人口60万の小さな田舎にこのような偶然が...

また高知は安重根(アン·ジュングン)との縁がある人が多い。 安重根が伊藤博文を射殺して中国の旅順監獄に収監されて裁判を受けていた時、彼を調査した検察官が二人いたが、いずれも高知出身だ。 官選弁護人も同様に二人だが、その中の一人は高知出身で、もう一人は鳥取県出身だが後に高知により本籍を変え市議会議長まで務めたのだから事実上高知出身だ。 当時旅順高等裁判所長も高知出身だ。

[韓国語] 안중근 재판... 검사, 변호사, 간수의 기묘한 관계 


安重根の収監生活を監視し"言忠臣行読経漫放嘉行"という遺墨を受けた看守も高知出身だ。 さらに彼の裁判過程を取材し法廷の様子をスケッチした記者まで高知出身だった。

韓国の首相を務めた金滉植(キム・ファンシク)安重根義士崇慕会理事長は昨年9月直接高知に行って講演をしてから遺品を寄贈した子孫たちに謝意を表したりもした。 東京から飛行機で2時間を乗って行かなければならない当時人口60万人ほどの小さな田舎の高知県で安重根の裁判と関連された人物がなぜこんなにたくさん出たのだろう。

高知の郷土史学者の公文濠(70)さんに話を聞いてみた。 公文さんは高知県議員を務め,明治時代の自由民権運動と高知県の歴史に非常に詳しい人だ。 特に安重根の裁判と関連のある人々の子孫を説得し彼らが保管している安重根の遺品をソウルの安重根義士記念館に寄贈するのに大きな役割を果たした。

公文さんは"高知に安の裁判にかかわった人物が多いのは当時長州藩と薩摩藩出身が掌握した中央政治と法曹界に懐疑を感じた土佐藩出身が大陸に多く渡ったためだ"と述べた。 安に対しては"危機に瀕した国を救うための行動だったので韓国人が救国の英雄として称賛するのは当然だ"と述べた。

イ·ヘギュン安重根義士記念館事務局長は"公文さんは高知で見つかった安重根の遺墨や裁判スケッチなどを韓国に寄贈するのに橋を掛けたありがたい方です。そして高知は韓国との縁が深い所であるから日韓関係改善と安重根記念事業のために今後も交流を一層活性化していきたい"と話した。

次は公文さんとの一問一答だ。 インタビューは私が昨年11月1日田内千鶴子の追悼碑建設22周年記念式の取材に高知県に訪問した時に行われたのだ。 
 
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公文濠さんが安重根が旅順で裁判について說明している. 右側は西森潮三元高知縣議會議長. ⓒ 金璟年

 
薩摩·長州出身に押し出された土佐の若者たち

-安重根が伊藤博文を射殺したハルビン事件後旅順監獄に収監された時,彼と関係のある多くの日本人が高知出身だ。 どういう理由か。
特別な理由があるというよりは偶然だ。 明治維新以後土佐藩(今の高知県)は法学教育が活発で多くの若者が法曹界に進出した。 その人たちは当時日本が支配していた中国の大連や旅順などに多く渡ったためだと考えている。

-なぜ中国に渡ったのか。
徳川幕府を倒して明治政府を立てた中心勢力は薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)出身だった。 その後日本の政治界は彼らが中心的にリードした。 官僚や警察もそこ出身が多く採用された。 自分の故郷の人だけを連れて行ったのだ。 そのため彼らと一緒に明治維新で大きな役割をしながらも征韓論などで対立して中央政界から追い出された土佐藩出身たちは故郷に戻り、自由民権運動(明治維新以後1870年代に政府の独断的な改革に反対して議会開設、憲法制定などを求めて起こした政治・社会運動... 編集者注)を行う。 法曹界も同様で押し出された一部の土佐藩出身が日露戦争後日本が占領していた大連と旅順に移った。

-土佐藩で法律教育が活発だった理由は何か。
当時土佐には自由民権運動の中心団体である'立志社'という一種の法律研究所があった。 立志社は庶民の法律問題解決のための諮問や弁護をし人々のための法律教育も行った。 そんな影響があって明治初期に法学教育が活発だったのである。 多くの若者が法を勉強するようになり、この人々が結局20-30年後に判事、検察官、弁護士などになって中央でも活躍することになる。 ところが法曹界でも薩摩,長州が影響を持っていたため,これに反発した高知出身が大陸に移るようになった。

-今も高知ではそんな伝統が依然として残っているのか。
今はそうではない。高知にも大学があるが法学部はない。 でも今から140年以上前までは法学教育の基礎を作るための私立学校がいくつもあった。 そこで勉強した人々が中央に進出し法曹人はもとより大政治家にもなった。 そんな雰囲気で育った人々が大陸に行って安重根裁判にかかわったのだ。
 
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安重根を尋問した溝淵孝夫檢察官. ⓒ ヌンビツ

 
"日韓両国を代表した 検察官と安重根、憎しみはなかった"

-安重根を調査した検察官が2人いるが、中でも溝淵貴男検察官が安重根の調査をほとんどしたようだ。どんな人だったのか。
学校はどこに出たのかわからないが高知出身だ。 おそらく最初から旅順で検察官を始めたのではないかと思う。 事件が発生するとハルビンに行って安重根を調べた。 旅順に来て正式な裁判が始まる前の下調べ全てを彼が行った。溝淵は安重根に対する憎しみはなかった。 安重根は韓国民族を代表して伊藤を撃ったのではないか。 韓国の独立のために、韓国を救うために。 溝淵もただ日本を代表する立場で彼を調査せざるを得なかっただけだ。 審問調書を読んでみると,安重根は韓国を代表し, 溝淵は日本を代表して二人の意見が正面からぶつかるケースもあった。 両者は国を代表する役割を果たすしかなかったのだ。 最終的に, 溝淵は安重根に死刑を求刑したが安重根も溝淵の立場を理解した。 そのため溝淵に送る遺墨を書いたが,残念ながら現在残っていない。

-検察官がもう一人いる。
そうだ。検察官が2人だったが裁判途中に他の人が移動することになった。 それで来られた人が安岡正四郎だ。 この人も高知出身で、二人はお互いに親戚関係だった。 安岡は後で家族に"溝淵が自分を旅順と呼んできた"と話したという。 安岡は安重根の取調べには直接参加しなかったが裁判所の職員から金を取り立て食べ物と下着を買って入れた。 非常に寒い所だからだ。 安重根を死刑に処せという外務省の指示が旅順高等裁判所長の平石氏人に伝わり裁判所の内部では地方裁判所の独立を守らなければならないという職員の反発が強かったという。 安重根は安岡に名前が入った遺墨を書いて送った。
 
-遺墨に名前があるものもあり,ないものもあるようだ。

名前がないものが多いが実際に裁判に関与した溝淵検察官や借入品を入れてくれた安岡検察官,そして通訳官には名前が入った遺墨を書いて送った。 安重根は獄中で200枚以上の遺墨を書いたが、実際に発見されたのは60枚あまりほどだ。 
   
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安重根の官選弁護人だった水野吉太郞の追悼碑が彼の故鄕に立っている. ⓒ 安重根義士記念館

   
安重根法廷の姿唯一に描いた記者も高知出身

-安重根を担当した官選弁護人も二人だった。 水野吉太郎は当初安重根について好ましくないと思っていたが,後は彼の人柄に感化されて救命運動までしたという。 彼はどんな人か。
青年期には高知で自由民権運動をしたのに法律勉強に心置き東京へ行って今の法政大学で勉強し弁護士資格証をとった。 水野は高知で弁護士事務所を開業した後北海道のホタルを経て大連に渡る。 そこで弁護士をしている途中、同事件の弁護人に選ばれるようになる。 他の弁護士は鎌田正治だ。 彼は元々鳥取県出身だったが裁判中に水野弁護士と仲良くなり裁判後一緒に高知に来て事務所を開設した。 そして県議員を経て県議会議長まで務めた。 
 
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安重根の官選弁護人を務めた鎌田正治の寫眞が高知市役所にあげられていた。 彼は後に高知縣議會27代議長を務めた. ⓒ 金璟年

 
-旅順監獄の看守では宮城県出身で安重根から"爲國獻身軍人本分"という遺墨をもらった千葉十七が有名だが,高知県出身の看守もいったそうですが.
"八木正礼という警察官だが千葉よりも階級の高い警部出身だ。 この人は初めて台湾総督府で巡査だったが伊藤射殺事件が起きる前に旅順を管轄する関東都督府に移動することになる。 事件後どのような役割をしたのかは正確に伝えられていないが警備関連の仕事をしたのではないだろうか。 安重根が死刑になる前に書いた"言忠臣行読経漫放仮行"という遺墨を彼の子孫が韓国に寄贈した。
 
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小松元吾が描いた安重根裁判の姿スケッチ. 小松の子孫が2016年安重根義士記念館に寄贈した. 左から安重根を支持する傍?客を制止する日本憲兵たち, 裁判を受ける安重根の後姿, 弁護士たち, 取材陣。 ⓒ 安重根義士記念館

 
-驚くべし、安重根の裁判を取材した記者も高知出身だと聞いた。
小松元吾という人だが画家でありながら高知地域の「土陽新聞」の記者だった。 土陽新聞は今の「高知新聞」の前身であり,自由民権運動とも大きな関連がある。 小松は水野弁護士と子どもの頃から友人だったという。 安重根事件のため旅順に行ったわけではなく駐在している間に偶然事件が発生したのだ。 裁判の写真を撮ることができず,ちょうど画家でもあった彼が当時の裁判の姿を描いたが安重根裁判が絵画として報道されたのは同紙だけだった。 「朝日新聞」のような大きな新聞も記事として報道したが絵はない。 彼の子孫が持っていた"志士仁人殺身成仁"遺墨と傍聴券、そして法廷スケッチは2016年ソウルの南山にある安重根記念館に寄贈された。
 
-その他また別の高知人は。

当時平石氏人旅順高等裁判所長も高知出身だ。 彼は旅順の高知県人会の会長を務め,後に旅順市長になったりする。

-いつから安重根の研究をしてきたのか。
30年前地元の歴史研究会で勉強し安重根を知るようになった。 
 
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"安重根を救國の英雄"と語る公文氏. ⓒ 金璟年

 
"国のために命をかけた行動、救国の英雄である"

-安重根はどんな人か。
当時裁判にかかわった人が皆口裏を合わせて非常に立派な人だったと語った。 日本政府は彼を日本の初代首相を殺したテロリストと主張するが彼に会った人たちは格好よい人物だったという。

-自分の意見は。
当時は韓国という国が地球上から消える直前だった。 日本は機会さえあれば韓国を併合しようとした。 国が消滅しようとした時に命をかけて対抗するのは当然だ。 同じ立場だったら日本人も当然そうしただろう。 国を救うために起こした行動を単なるテロリストと言うのはあり得ないと思う。 韓国の皆さんが救国の英雄として称賛するのは当然だと考える。

-安重根のせいで韓日併合が繰り上げられたという主張もあるが。
当時の日本政府の資料を見ると、暗殺1年くらい前にすでに閣議で機会があれば併合をしなければならないという内容がある。 安重根事件が併合を起こしたというのは間違いだと思う。 江華島事件から始まり閔妃暗殺,京釜線鉄道敷設,日清·日露戦争を経て次々に外交権を奪っていく。 ついに伊藤が統監府を建てて外交権だけでなく内政までも干渉し日本の了解がなければ韓国は何もできない状態になる。 このような状態をつくっておいたので半植民地だったし併合は時間の問題だった。 そうした流れの中で安重根事件に対する評価はそれほど単純な問題ではなかった。

-当時安重根はわずか31歳の若さだったが、どうしてそんなことをしただろうか。
ほんとだ。 すごい。ところがむかしは日本もそうだった。 明治維新を実現して行った人達は全部20-30代だった。竜馬のように。最近も韓国は若者が懸命にデモをしないか。

-今の日本の若者はどうか。
"最近ソウルに行って市庁前のホテルで泊まったが片方では若者がろうそくデモをして片方ではお年寄りたちが太極旗デモをしていた。 いずれにせよ,人々が国家と政治について関心があるという意味ではないだろうか。 韓国と日本はエネルギーが違う。 日本は無気力,無関心,無感動社会だ。 日本の若者たちは力がないようで懸念している。
#安重根 #高知 #田內千鶴子 #公文濠 #土佐藩
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